井上内親王の悲劇−5

歴史

 前回を大まかに復習すると、井上内親王の祟りとして、地震、日蝕や豪雨・干魃などの天変地異だけでなく、不可解なことが次々と起こる。祟りをとくために、600人の僧侶による大赦を行った。井上内親王を貶めた首謀者と思われる蔵下麻呂、良継、百川が次々亡くなる。
さて、わたしなりに井上内親王の生涯と政略的謀略に巻き込まれたいきさつについて考えてみたい。
 首皇子(のちの聖武天皇)の第1子(母:県犬養広刀自)として井上内親王は717年(養老元年)に生を受けた。母が県犬養広刀自(非藤原系)であり、彼女の誕生は必ずしも栄光に満ちて、喜ばれるものではなかったのかも知れない。つまり、翌718年(養老2年)に首皇子の第2子、阿倍内親王(のちの孝謙天皇・称徳天皇、母:藤原光明子)が誕生したからである。
5歳(721年)で伊勢神宮の斎王(斎王については別記する)に卜定されたことについては、このとき、すでに藤原不比等は亡くなっており、右大臣となった長屋王が政権を担っていたのである。しかし不比等の息子四兄弟も三階級程度の特進をして中納言となり、不比等はいなくなったものの、彼らも発言権を持っていたものと推察される。そのため、卜定とはいえ、四兄弟の妹である阿倍内親王(母が光明皇后)ではなくて、非藤原系の井上内親王が意図的に斎王に選ばれたのではないかと思われる。早くに斎王に選定しておいて、実際に斎王として伊勢に下向するのは、6年後の井上内親王11歳(神亀4年、727年)である。
 それまで皇后という地位は、皇室から迎えた妃がその地位につくことができるものであり、いくら藤原氏といえども、臣下からの妃を皇后に立后することはなかった。したがって、長屋王は、これまで前例のないこととして、光明子の立后には反対していた。しかし、光明子を聖武天皇の皇后に立てたかった藤原四兄弟は、「長屋王の変」で長屋王を亡きものにする。その後、右大臣にまで昇進した武智麻呂を中心として、藤原四兄弟で政権をほしいままにした。しかし、朝鮮半島から九州にもたらされた「天然痘」の流行によって、四兄弟は次々に亡くなってしまう。四兄弟の子息はまだ力をもっていなかったので、政権は橘氏(諸兄、奈良麻呂)に移ってしまう。さらに藤原広嗣(式家)の乱、藤原仲麻呂(恵美押勝:(南家))の乱により藤原氏の政権での力は地に落ちてしまう。しかし称徳天皇の寵愛をうけた道鏡を退ける過程から、再び徐々に藤原氏は力をつけてきていた。
 天平勝宝4年(752年)頃、井上内親王は左大臣・藤原永手(房前次男:北家)の推挙により、白壁王(天智天皇第7皇子・志貴皇子の第6子)と結婚したとされる。この時点では、白壁王は出世も遅く、称徳天皇の皇太子が決まっていないとはいえ、他の皇族(塩焼王など)の変はあったものの、皇室の中ではそこから最も遠い位置にいたと考えられていた。井上内親王自身もそのように考えていたに違いない。
 しかし、宝亀元年(770年)に白壁王が皇位についたのである。このことについては、藤原永手、藤原良継(式家)、藤原百川(式家)が策を奏したと言われている。
一番の問題だったのは彼女(称徳天皇)が次の天皇を明確に指名せずに亡くなったことであった。
 ここには興味深い逸話が伝わっている。称徳天皇の死後、次の天皇を誰にすべきかとの会議が持たれた。参加者は、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議藤原宿奈麻呂(良継)・参議藤原縄麻呂・参議石上宅嗣、近衛大将藤原蔵下麻呂である。そこで候補に登ったのは、天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇、62歳)、それに天武天皇の孫に当たる文室浄三(ふんやのきよみ:智努王〔ちぬおう〕、78歳)と、浄三の弟文室大市(ふんやのおおち:大市王、67歳)の3人であった。
 このなかで、結局白壁王が選ばれるのだが、『日本紀略』によれば、参議藤原百川等が称徳天皇の偽りの遺詔を作って読み上げさせると、真備たちは驚いてあきらめ、結局、白壁王に決したという。
 井上内親王を皇后と定めた、770年(宝亀元年11月6日)の記事に興味深い記述がある。「従四位下の諱(山部王、後の桓武天皇)に四品を授け、(中略)酒人内親王に三品を授けた」とある。酒人内親王は、のちに山部親王の妃となるが、これはつまり、井上内親王が皇后になった時に、山部親王よりも酒人内親王の方が、位階が上であったことを示している。酒人内親王の弟である他戸親王の当時の位階は歴史書に記述はないようであるが、山部親王と同等の四品と考えても、実母の位階や格(皇室の出自)を考慮すれば、他戸親王が次期天皇(皇太子)としてふさわしいことが自ずと知られよう。
井上内親王が光仁天皇や難波内親王を巫蠱・呪詛した罪に問われたことについては、井上内親王と白壁王との婚姻の仲立ちだけでなく、井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力したといわれる左大臣の藤原永手(藤原北家の祖・藤原房前の次男)が光仁天皇即位の5ヶ月後の宝亀2年2月22日に死去(58歳)したことが影響しているのであろう。つまり、藤原北家と藤原式家(藤原良継・藤原百川)との対立と優越性の確立(北家から式家への政権基盤の移行)が関係しているともいえる。
しかし、そもそもなぜ井上内皇后が光仁天皇を呪詛しなければならなかったのか、その理由が判然としない。井上内皇后は、夫の光仁天皇が天皇に即位したのであるから、他戸親王を次の天皇にしたかったと考えていたのかもしれない。光仁天皇は天皇になった時にすでに62歳、現在まで天皇に即位した年齢が最も高齢である天皇である。また当時としてもその年齢はかなりの高齢であった。よって、井上内皇后が光仁天皇を呪詛して早く亡きものにしようと意図的に巫蠱や呪詛を試みる必要などあるはずもないし、光仁天皇が崩御する頃(実際には即位後11年後、73歳に崩御)には、他戸親王(皇太子)も即位しても周囲から不満も出ない必要十分な年齢となっているはずである。したがって、井上内皇后が光仁天皇を呪詛する理由がない。
また、良継と百川は他戸親王を廃太子して、山部親王(母の高野新笠は百済から大和朝廷への人質として送られた武寧王の10世孫とされているので、井上内親王・皇后と他戸親王・皇太子がいると山部親王は皇太子になれなかった)を皇太子にしたいと考えていたと思われる。井上内親王を廃后、他戸親王を廃太子する前に、すでに山部親王に良継は娘の乙牟漏を、百川は娘の旅子を入内させていたと考えられている。彼女らはそれぞれ安殿親王(のちの平城天皇)、神野親王(のちの嵯峨天皇)と大伴親王(のちの淳和天皇)を生んだ。以上のことから、良継と百川が光仁天皇の皇位継承から井上内親王の廃后と他戸親王の廃太子、山部親王の立太子、皇位継承まで色濃く関わっていたことが読み取れる。
光仁天皇が自分が即位できたことに関して、良継や百川に恩義を感じていたことは読み取れるが、それにしても、『続日本紀』から抜粋したように光仁天皇自ら詔して、自分の妃と皇子を幽閉するとは何事かと思う。光仁天皇自身が良継や百川に貶められ、懐柔されていたのかと考えると井上内親王や他戸親王が不遇でやりきれない。どうして自分の妻(皇后)や息子(皇太子)を光仁天皇は自分の手で守ってやれなかったのかと思う。
そのため、光仁天皇自身や桓武天皇(山部親王)、藤原良継、藤原百川らは井上内親王の祟りに悩まされていたことが抜粋した『続日本紀』の記述からもうかがわれる。
幽閉された大和国宇智郡には、藤原武智麻呂(南家)の墓があり、藤原南家ゆかりの地であった。退官した藤原一族の館に井上内親王と他戸親王は預けられたと思われる。現在の五條市須恵一帯を下馬町と呼び、江戸時代ここを通行するものは、大名といえども馬から下りて通る習わしがあり、それを犯すと、落馬するか、禍を受けたと伝えられ、それも井上内親王の幽居があったからで、その跡に井上院(いじょういん:聖神社)が建立された。現在井上町という自治会があり、「聖神さん」と呼ぶ古い祠を祀り(ここは井上内親王と他戸親王が幽閉された没官宅跡ともいわれる)、境内では子どもはいくら戯れて遊び、おしっこを漏らしても祟りはないけれど、大人が放尿でもしようものなら病魔に冒されてしまい、三代末まで祟られるという。
井上内親王と他戸親王はそこで同日に亡くなっており、これが尋常とは考えにくい。そのため毒殺などにより他殺されたと考える人が少なくない。これが井上内親王と他戸親王の祟りという考えがうまれる素地である。そして、この祟りが御霊信仰がはじまった一つと考えられている。
 藤原氏、恐るべしである。
 続きはまた。

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