今回は少し長くなります。
井上内親王は薨去した。
井上内親王の祟りと思われている事象を文献(主に続日本紀)から拾ってみます。
775年(宝亀6年5月4日)地震があった。
775年(宝亀6年5月13日)野狐が出てきて、大納言・藤原朝臣魚名の朝堂院内の座席にいすわった。(宮中の政務の場に狐が入り込むのは異常で、凶兆とされた。(狐は怨霊の化身と解釈されることが多かった))
775年(宝亀6年6月22日)畿内の諸国に使者を使わして疫病の神を祭らせた。
775年(宝亀6年6月25日)黒毛の馬を丹生川上神に奉納した。日照りのためである。畿内諸国で、よく雲雨をおこす神社には使者を遣わして幣帛を奉納した。
775年(宝亀6年秋7月1日)参議・大宰帥・従三位・勲二等の藤原朝臣蔵下麻呂が薨じた。平城朝(聖武朝)の参議・正三位・式部卿・大宰帥の馬養(宇合)の第九子である。内舎人から出雲介に還り、天平宝字七年に従五位下を授けられ、少納言に任じられた。宝字八年の乱(藤原仲麻呂の乱)で、賊軍が近江に逃走し、官軍が追討した。蔵下麻呂は兵を率いてすぐに追いつき、力戦して賊軍を破った。その功績で従三位・勲二等を授けられ、近衛大将・兼左京大夫、そして伊予・土佐などの国の按察使を歴任した。宝亀五年に、兵部卿から大宰帥に還った。薨じた時、年は四十二歳であった。
775年(宝亀6年7月16日)下野国が言上して「都賀郡に黒い鼠が数百匹ばかりあらわれ、数十里(一里は六町四方)ばかりにわたって草木の根を食べました」といった。
775年(宝亀6年7月19日)雹が降った。その大きさは碁石のようであった。
775年(宝亀6年8月7日)野狐があらわれて内裏の門にうずくまった。
775年(宝亀6年8月22日)伊勢・尾張・美濃の三国が言上して、「異常な風雨があり、人民三百余りと、馬牛千頭余りが流されて水中に没しました。さらに国分寺や諸寺の塔が19基も壊れました。官人や個人の家に至っては数えられない程であります」といった。
そこで、使者を遣わして伊勢の斎宮を修理させ、また手分けして、諸国の被害を受けた人民を調査させた。
この日、疫病の神を畿内五カ国で祭った。
775年(宝亀6年8月30日)大祓をおこなった。伊勢・美濃などの国々で風雨の災害があったからである。
775年(宝亀6年10月6日)地震があった。
775年(宝亀6年10月19日)僧二百人を招き、『大般若経』を内裏と朝堂で読ませた。
775年(宝亀6年10月24日)大祓をおこなった。風雨や地震があったためである。
775年(宝亀6年10月25日)幣帛を伊勢大神宮に奉納した。
775年(宝亀6年11月6日)畿内五カ国に使者を遣わして、池や溝を修理・造営させた。
775年(宝亀6年11月7日)大宰府が言上して「日向・薩摩の両国に風雨があって、桑や麻が損害を受け全滅しました」といった。天皇は詔して、寺の封戸(ふこ)や神戸(かんべ)を問わず、今年の調と庸をみな免除した。
776年(宝亀7年2月6日)この日の夜、流星があった。その大きさは盆(ほとぎ:鉢)くらいであった。
776年(宝亀7年夏4月1日)日蝕があった。
776年(宝亀7年5月29日)大祓をした。災害や変異がしばしば現れたためである。
776年(宝亀7年5月30日) 僧六百人と招いて、宮中と朝堂で『大般若経』を読経させた。
776年(宝亀7年6月4日)太白(金星)が昼間見えた。
776年(宝亀7年6月18日)京と畿内諸国で大祓をさせ、黒毛の馬を丹生川上神に奉った。日照りのためである。
776年(宝亀7年7月19日)西大寺の西塔に雷が落ちた。
776年(宝亀7年8月1日)使者を遣わして全国の諸神に幣帛を奉納した。
776年(宝亀7年8月13日)大風が吹いた。
776年(宝亀7年8月15日)天下の諸国に蝗(いなご)の害があった。畿内に使者を使わして巡視され、その他の諸国は国司に事を当たらせた。
776年(宝亀7年閏8月28日)壱岐島で風が吹き稲の苗を損なったので、今年の調を免除した。
776年(宝亀7年9月)この月毎夜、瓦や石や土塊が内豎(ないじゅ)の庁舎や宮中の阿智ことの屋根の上に自然に落ちてきた。翌朝見てみると、落ちてきたものは現実に存在していた。二十日余り経って止んだ。
776年(宝亀7年10月9日)地震があった。
776年(宝亀7年11月2日)地震があった。
776年(宝亀7年12月22日)渤海国が献可大夫・司賓少令(外構を司る司賓寺の次官)・開国男(げこくなん)の史都蒙(しつもう)ら百八十七人を遣わして、光仁天皇の即位を祝い、あわせて渤海国王の妃の喪を伝えてきた。一行は我が国の海岸に到着する頃、突前暴風に遭遇して、舵が折れ帆が落ちて、溺死者を多く出した。生存者を数えるとわずか四十六人であった。それで越前国加賀郡に丁重に収容して衣食などを提供した。
777年(宝亀8年2月21日)讃岐国に飢饉があったので、物を恵み与えた。
777年(宝亀8年2月28日)使者を遣わして、疫病の神を畿内五カ国に祭らせた。
777年(宝亀8年2月30日)日蝕があった。
777年(宝亀8年3月19日)大祓をした。宮中でしきりに奇怪なことが起こるためである。
777年(宝亀8年3月21日)僧六百人、沙弥百人を招いて、宮中で『大般若経』を転読させた。
777年(宝亀8年4月5日)雹が降った。
777年(宝亀8年4月13日)雨氷が降った。太政官・内裏の建物に雷が落ちた。
777年(宝亀8年5月13日)(前略)白馬を丹生川上神に奉納した。長雨のためである。
777年(宝亀8年7月5日)伯耆国に飢饉があったので、物を恵み与えた。
777年(宝亀8年7月14日)但馬国の国分寺にの塔に雷が落ちた。
777年(宝亀8年8月8日)白馬を丹生川上神に奉納した。長雨のためである。
777年(宝亀8年9月18日)内大臣の従二位・勲四等の藤原朝臣良継が薨じた。平城朝(聖武朝)の参議・正三位・式部卿・大宰帥・藤原朝臣馬養(宇合)の第二子である。
777年(宝亀8年11月1日)(光仁)天皇が病気になった。
777年(宝亀8年12月25日)皇太子(山部親王)が病気になったので、使者を遣わして幣帛を畿内五カ国の諸社に奉納した。
777年(宝亀8年12月28日)井上内親王の遺骸を改葬した。その塚を「御墓」と称して墓守一戸を置いた。
この冬は雨が降らなくて、井戸の水が涸れ、出水川(泉川。今の木津川)も宇治川も徒歩で渡れるようになった。
778年(宝亀9年春正月一日)朝賀の儀式は行なわれなかった。皇太子の健康が思わしくなかったからである。
778年(宝亀9年3月3日土佐国が言上して「去年の七月、風雨がはげしくて四郡(土佐国は九郡ある)の民の仕事に被害がありました。その上、人や家畜が流されて死に、すまいが破壊されました」といった。そこで、詔を下して物を恵み与えた。
778年(宝亀9年3月23日)天皇は次のように勅した。
淡路親王(淳仁天皇)の墓を「山陵(みささぎ)」と称し、その亡き母は当麻氏の墓を「御墓」と称するようにせよ。また近くの人民一戸をあててこれを警備せよ。
778年(宝亀9年3月24日)天皇は次のように勅した。
この頃、皇太子は病に伏して、思わしくない状態が数ヶ月続いている。医療を加えたがまだ回復していない。朕は、病を救う方法は真に徳のある政治をすることであり、延命の術は慈しみのある政令を出すほかにはない、と聞いている。それで天下に大赦をおこなう。宝亀9年3月24日の夜明け以前の死刑以下の罪は、罪の軽重に関わりなく、罪がまだ発覚していないものも、すでに発覚したものも、まだ罪名のきまっていないものも、すでにきまったものも、現に獄にある囚人も、すべて赦免せよ。ただし、八虐の罪、故意の殺人・贋金(にせがね)造り、強盗・窃盗など通常の赦免で免(ゆる)されない者は、この赦の範囲に入れない。もしそのなかで死罪にあたる者があれば罪一等を減じ、あえて赦免以前の犯罪のことを密告する者がいれば、その犯罪に相当する罰を密告者に科するように。また皇太子のために三十人の得度・出家させられた。
778年(宝亀9年3月27日)天皇は大祓を行なわれた。使者を遣わして、幣帛を伊勢神宮と天下の諸神に奉納された。皇太子が回復されないからである。また畿内と畿外の各境界で疫病の神を祭らせた。
778年(宝亀9年5月21日)寅の時(午前4時頃)に地震があった。
778年(宝亀9年5月25日)また地震があった。
778年(宝亀9年10月25日)皇太子は伊勢に向かわれた。これより前から皇太子は病に伏せって久しく回復されなかったが、ここに至ってようやく自ら神宮に参拝された。これは、前からの病気平癒の祈りに対するお礼のためである。
779年(宝亀10年7月9日)参議・中衛大将で式部卿を兼任する従三位の藤原朝臣百川が薨じた。(中略)百川は平城朝(聖武朝)の参議・正三位・式部卿で大宰帥兼任の藤原朝臣宇合の第八子である。幼少から度量があって、高くかつ重要な地位を歴任し、宝亀九年には従三位・中衛大将・兼式部卿に至った。歴任した官職はそれぞれ勤勉で真面目さをもって務めあげた。天皇は厚く百川を信任され、腹心の臣として事を委ねられた。百川は内外の重要な政務であずかり知らぬものはなかった。
今上天皇(桓武天皇)が皇太子の頃(宝亀四年以降のこと)に、特に心を寄せられた。ある時、上皇(光仁)が病になられてすでに数ヶ月を経ても回復されなかったとき、百川の憂いはその様子に現れ、医薬や祈禱などすべてに心力を尽くした。上はこれによって百川を重んじられ、百川が薨じた時は、殊の外悲しみ惜しまれた。時に四十八歳。
後年の『愚管抄』には、以下の記述がある。
百川宰相がたいへん立派に光仁天皇をお立てしたが、そのあとをお継ぎになる皇太子をどうするかで争いがあった。百川は桓武天皇の擁立をなしとげたのであるが、その間あまりに策が多すぎ、光仁天皇の皇后であった井上内親王(聖武天皇皇女、桓武天皇と皇位をめぐって対立した他戸親王の母)を、穴を掘って獄を作り、押しこめ申し上げたりしたので、井上内親王はそのまま竜となられ、とうとう百川を蹴殺しておしまいになったということである。
782年(天応元年12月23日)光仁太上天皇が崩御された。御年七十三歳であった。桓武天皇は悲しみ泣き叫ばれて、のどが破れる程で自分でそれを止めることができなかった。多くの中央・地方の官人も慟哭して日を重ねた。
788年(延暦7年5月4日)(桓武天皇)夫人の従三位・藤原朝臣旅子が薨じた。(中略)妃は贈右大臣・従二位の藤原朝臣百川の娘である。(中略)薨じた時、30歳であった。
以上が井上内親王の祟りと考えられている事象である。
長くなったが、最後までお付き合いいただいた方には感謝します。
続きはまた。


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