月讀神社(京都市西京区山室山添町)

令和757日に旅す。

 祭神は月讀尊。

京都・松尾大社の摂社 月讀神社の拝殿

現在は、月讀神社は松尾大社の摂社となっているが、延喜式では名神大社の一つに数えられる神社である。元は、壱岐氏によって壱岐島の月讀神社において海上の神として奉斎されたのがはじまりとされている。

 日本書紀によれば、23代顕宗天皇3年(487年)春2月1日、阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が命をうけ朝鮮半島・任那に使いした。このとき月の神(月讀尊)が、人に憑いて、「わが祖高皇産霊(たかみむしひのみこと)は、天地をお造りになった功がある。田地をわが月の神に奉れ。求めのままに献上すれば、慶福が得られるだろう」(同じ日本書紀・神代上では、伊弉諾尊が黄泉の国から帰った時の禊ぎで、天照大神・素戔嗚尊とともに右目を洗った時に月讀尊が誕生したという神話とは矛盾する話である)といわれた。事代は京に帰って、(天皇に)詳しく申し上げた。(そして天皇は)山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉られた。壱岐の県主の祖先の、押見宿禰(おしみのすくね)がそこにお祠りして仕えた。

葛野郡歌荒樔田とは正確な場所は不明であるが、斉衡3年(856年)に松尾山南麓の現在の位置に移ったと伝えられている。

 月讀神社が壱岐から京都へ勧請されるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえる。

京都市指定史跡

 社内には、「月延石(つきのべいし)」が置かれ、安産と子授けの神として信仰されている。この月延石は、神功皇后が新羅出兵の際に身籠もっていた、のちの「応神天皇」を戦いの最中に産まれないよう、出産を延ばすように皇后のお腹にくくりつけられた石であるとされている。

つまり、日本書紀によれば、時がたまたま皇后の臨月(9月)になっていた。皇后は石をとって腰にはさみ、お祈りしていわれるのに、「事が終わって還る日に、ここで産まれて欲しい」と。その石は今、筑前恰土(いさ)郡の道のほとりにある。

(中略)

皇后は新羅から還られた。12月14日、後の応神天皇を筑紫で産まれた。時の人はその産処を名づけて宇瀰(うみ:福岡県糟屋郡宇美町)といった。

 そして、のち舒明天皇の時に「その石」は月讀神社に奉納されたという。

月延石(安産・子授けの信仰)

 月讀神社は、壱岐の海神信仰を起源とし、京都で今も静かに祀られています。

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